ローラン・イエーターは6年前の夏にやってきた。我が家に4日ほどの短い滞在で、初めて訪れた奥さんと娘と一緒の日本への旅、その家族を東京に置いてエムズ山王でのわずか3本のサーフボードをシェイプするために辻堂駅まで彼を迎えに行った。
その年の春の山王製作を終えて日本を離れて家に戻ったリッチ・パベルから、"ローランが日本にいるから会うべきだよ、できればシェイプもしてもらうといいよ!"、と連絡が入った。
その時のストーリーはこのサイトでも紹介したけれど、先日その時に製作して仲間に渡った1本の板が久しぶりにエムズに戻ったので、このあまりにも大物の話はもう一度紹介する価値があることに気がついた。
知る人ぞ知る、なんて言葉では全く足りなくて、言葉が思いつかないくらい。どころか、日本では知っている人はおそらくほとんどいないけれど、真のスーパースター。真実とはそんなものだ。
ローラン・イエーターはレイノルズ・イエーターの息子、サンタバーバラで育ったサーファーでその地のアイコン。レニーと呼ばれるイエーターさんは、言うまでもなく本物のレジェンド。
こういうドラマチックな親子のストーリーは他にも聞くけど、イエーター親子の話はドラマ仕立てでは失礼でしかない。
同じサンタバーバラにはパットとトムのカレン親子。
そうなんです、70年代終わり頃にはローランとトムはサンタバーバラではそれこそリアルサーファー巣窟のようなその地で誰もが注目する2人の若いリーダーたちで、少なくとも周りからはライバル同士のように見られていた。
ところがローランは早くからコンペシーンとは距離を置く。私が彼から聞いたところではそもそも好きではなかった。
ローランは父であるレニーを尊敬し背中を見ながら自身のあり方を選択してきた。若い頃からサーフボード作りを父を見て覚え、サンタバーバラでは彼の削る板を手にするチャンスは真の特別。
このクラシックなラミネートを見ると、時代だ、トレンドだ、は霞む。
そして彼のサーフィンは美しい。スタイル、と言う言葉では軽い。
ソウル・サーファーという呼び方があるけど、ローランの前ではそれすら単なるコマーシャルサイドが生み出した言葉に過ぎないことが分かる。
そんなローランはある時からサーフボード・シェイプの本数を大きく減らすようになった、というよりもほとんど削らなくなった。
自分のための板と、本当に稀に友人のための板も、そんなふうにほんのわずかだけ。
20年少し前頃からのサーフテックに始まるさまざまなブランドを巻き込んだモールドボード・ビジネス。我らがVELZYもいっとき、そしてイエーターさんも巻き込まれてその中にはなんとローラン名義のモデルすら存在したりもしたけれど、そいつはまた別な意味でレア、と軽いセリフで言っておきたい。
ローランの削る板はレニーさんの基本を忠実に受け継ぎ、さらにローラン自身の美しいサーフィンを反映したもの。
ローランとは我が家に滞在している一緒する晩飯どきに色々な話をしたけれど、響いた言葉がある。
なんで削らないの?、と訊いた私に、サーフボード・マーケットのあまりにも酷い現状、それも随分と前からの、を言った。
それは闘争的な態度でもないし、コマーシャルなシェイピングをしないという選択、と受け取った。
その彼が私たちのために3本もの板を削っていってくれた。ローランの足跡が3本だけ、日本にある。
ローランが家族と共に家に帰ってからしばらくして長い親交のあるイエーター家を訪れたリッチが、レニーさんに日本で私の家に滞在してエムズでシェイプしたことを話すとレニーさんは本当に驚いて、"ローランが削ったのか!?"、とリッチに訊いたそう。
ローランはそういう話をしていてもいつものとても穏やかな態度に不自然な我慢は見えないが、彼がとても嬉しそうに盛り上がったのは、彼の携帯に保存されている波乗りの写真を見せてくれていた時。
カリフォルニアのベストの一つリンコン(ベスト、なのに一つってのもお笑いだけど)、そこではいい波の日には必ず何人もフォトグがいいサーファーを狙っているけど、ローランの波乗りを撮ることはそれを目にするチャンスと同様にリンコンにおけるベストの喜びなのだ。
ローラン・イエーター、そういうサーファーです。